「自分探し」にまつわる真実

旅する理由を訊ねられて、「自分探し」だと最初にいった人はなにを考えていたのだろう。どこかの誰かが「自分探し」といったせいで、ぼくたちはときどき、旅をしない人からその言葉を使って揶揄される。その揶揄は的外れだと前々から考えていた。
旅の魅力は、自分ではなく、他者と出会えることにある。ここでいう他者とは、ノリノリで意気投合した旅仲間のことではなく、どちらかというと、「仲間」になることもなく過ぎ去っていった人たちや風景のことだ。そんな他者との関わりが、望むと望まざるに関わらず発生し続けるのが、異国の旅。物を買ったり、食事をしたり、トイレを探したり、乗り物で移動したりするだけでそれが起きるので、旅の過程は他者まみれだといっていい。では、そのようにして他者と出会って、私たちの内面にはどのような変化が起きるのか。腹を立てる場合もあれば、ほっこりするようなこともあるだろう。舞い上がったり、小さくなったり、同情したりもするだろう。いずれにせよたしかなことがある。それは、「自分のことを考えている場合じゃなくなる」ということである。すなわち、自分から自由になる。少なからず強制的に。旅の旅たる所以はここにある。
それならば、こういえるのではないか。異国を旅する理由は、まず「他者探し」にある。そしてその先に待つのは「自分忘れ」の旅であると。

 

では、自分はどこで見つかるのだろうか。「自分探し」は旅以外のどこかで行われているのだろうか。ぼくの考えでは「自分探し」は日常生活の中で行われており、その人の所属する社会がその舞台になっている。
自分とは? その答えは自分のことを知っている誰かの頭の中にある。自分について思い悩むことがあったら、深夜のファミレスか喫茶店に辛抱強い友人を呼び出して、「俺ってどんなやつ?」「私ってどんな人間だと思う?」と訊くといい。「おもしろいやつ」「意外に真面目」「辛辣」「頼りになるムードメーカー」「元気だけどみんなに気ぃ遣ってるよね」「頑固だけど芯があってそこがいい」なんて答えが返ってくるだろう。予想と違った回答でも、帰る頃には気持ちは軽くなっている。彼(彼女)の中に自分がいたことだけで「自分探し」の第一目的は達成しているともいえるからだ。
職場にも自分は見つかる。そこには今日も明日も変わらない自分の役割がある。家族や恋人の頭の中には、よりはっきりと自分が存在している。行きつけの飲み屋、SNSの相互フォロー、ペット、ご近所、活気のあるグループLINE。みんな、顔を見せればあなたがが誰だか教えてくれる。
どうだろう?
ぼくには案外、「地に足のついた」生活をおくる彼らの方こそ「自分探し」が止まらないように見えるのだ。

 

旅先では、一日で出会う誰の心にも自分が存在しない。それゆえに旅の最中にも関わらずSNSの方を向きすぎてしまい、「他者探し」よりもフォロワーや友人の頭の中に存在する自分を探すのに忙しくしてしまう人もいる。無理もないことだと思う。
「地に足のついた」人たちが生活から離れることができずにいる理由は、つきつめたら仕事や家庭の問題ではないことが多い。いっときも中断できないのは、本当は生活そのものではなく、自分探しなのだ。この職場に今日も自分の居場所はあるだろうか。恋人は自分のことを大切に思っているだろうか。友人たちは自分がいないところで盛り上がっていないだろうか。自分の思想信条は正しく理解され、見合ったリスペクトを受けているだろうか。
絶景や美食、刺激的な異文化、浴びたことのない風に憧れても「でも日本がいちばん楽だし」とうそぶく彼らは、旅が「他者探し」であることに勘づいている。

 

終わりなき日常のなかの「自分探し」の円環に閉じ込められないために、私たちにできることはなにか。ぼくの考えでは、そのための確実な方法は存在しない。成功体験や子供の頃の人間関係や身体感覚やいろいろなものが関係している。しかし、長い人生で発見してきた自分という存在 (その人にとっての「深夜のファミレス」)の蓄積を、目先の都合で、捨てたり選び直したり書き換えたりしないことは大切だろう。それをやるたびに、自分はバラバラになり、結果的にまた新しい自分を蓄積する必要が出てきてしまうのは火を見るよりも明らかだから。
目先の都合とはなにか。それは、ある個人や集団とうまくやっていきたいという都合か、挫折から立ち直るためという都合のどちらかが多いようだ。誰にでもある都合であり、少なからず自己変革を要し、また痛みを伴う。問題は、その変革の過程で、リセットへの願望や、過去の自分を別のなにかに仮託してそのなにかを激烈に否定したい願望に駆られることである。それがつまり、バラバラになることの実態である。

 

ぼくはぼくにとっての「深夜のファミレス」を大切にしているし、それに助けられている。思い出はよく記憶しているほうだ。というか、たぶん、余す所なく記憶している。過去の体験を、新しい生活や出会いが上書きするようなことはぼくの場合、考えられない。その記憶たちが、一日で出会う誰の心にも自分が存在しない「自分忘れ」の旅での道筋になったと信じている。自分探しが必要ない状態になれば、そのあとにはきっと、いいことがある。

ビクトリア朝では「病気がち」であることがステータスだった

アガサ・クリスティの自伝を読んでいて興味深いと感じたことの一つに、彼女の少女時代、ビクトリア朝のイギリスでは女性たちのあいだで「病気がち」であることが流行していたというエピソードがあった。病気そのものではない。「病気がち」が流行っていたのである。「身体が丈夫ではない」ことは妙齢の女性にとってステータスだった。活発でタフな少女だったアガサ・クリスティは、ちょっとだけ小馬鹿にしたように当時をそう振り返っている。

と、こんな前置きをしたのも、今の時代も同じだと考えたからである。面白いことに、人はその性格によって、自慢(ステータス)に思っていることの内容が正反対だったりする。

例えばこうだ。

ある人は、昨日の睡眠時間の少なさを自慢をする。別の人はかかりつけ医から出される常備薬の多さを自慢する。ある人は、自分は会社に泊まり込むほどの長時間労働にだって耐えられることを誇る。別の人は自分はあらゆることに無気力で引きこもり体質なのだと嬉しそうに語る。己がタフであることを誇るならわかりやすい。しかし、そうでないことも、本人は意外に自分自身を表現するちょっとしたポイントだと思っているふしがある。ビクトリア朝の女性たちも同じだったことを思うと、人間って……と考えてしまう。

ぼくがそれを自慢(ステータス)だと言ったのは、先述したように、彼らがそれを誇らしげに、嬉しそうに語っているように見えたからだ。飛行機が苦手。飲みニケーションが苦手。あれが持病だ、これが体質だ。自分は繊細なのだ。傷つきやすいのだ。

「誇らしくなんかない、知ってもらわなきゃ困るから言うんだ!」うん、そうかもしれない。でも、そういう人もいるし、そうでない人もいる、とぼくは感じたのである。そしてどうやら、アガサ・クリスティも同じだったらしい。

ところでぼく自身、好みのうるささや、性格の気難しさを堂々と語ってしまうときがある。そういうとき、やはりどこかでそんな自分への愛着を感じて、あえて開き直ってツッパっているのだろう。だが、自分の精神面に関して、「ぼくの心は繊細だ」「傷つきやすく、感受性豊かだ」と言ったことはなかった。そんなのどうしたって主観でしかないじゃないか、と突っ込んでしまうのだ。要するに、自分が感じていることは、他人も同じように感じているのだとぼくは基本的に思っている。傷も、喜びも、人の悪意も、季節が移り変わっていく匂いも。そのポテンシャルの段階から、自分と他人を区別して考えたら進む話も進まなくなってしまうだろう。いや、ひょっとしてみんな、進めたくないのだろうか?

焼き付けるということについて

旅の最中は、今よりもSNSとの距離が近かった。だから、ある経験に遭遇すると、よくこう考えた。これは投稿するべきか、と。だいたいぼくはそういうとき、やめておこう、という結論を出した。

SNSでの発信が活発な人間について、彼らの「承認欲求」というモチベーションが指摘される。自慢、見栄、マウンティングとも近いところにあるその言葉は、ぼくはそれほど重要なものではないと思う。ぼくが気になるのは、そんな彼らよりも少し慎みがある人たちのことだ。慎みがある人たちは、衝動的には投稿しない。ぼくがそうだったように、その投稿が他人にとって、自分にとって、どんな意味を持つのかをいつも慎重に吟味している。そして、あるとき、大切なことの象徴的な一部だけを切りとったテキストや写真の欠片を、いかにもひっそりとネットの世界に放流する。多くの場合、他人からみたらその投稿が意味するところはぼんやりとしかわからない。

個人的な慎みを乗り越えて投稿された彼らの文章や写真は、その人にとってどんな意味を持っているのだろうか。その投稿に限って、やめておこう、という結論に至らなかったのはなぜだろうか。自分の経験に照らし合わせて考えてみると、ぼくはこう推測できる。彼らは焼き付けたかったのだ、と。カレンダーの特別な日に丸をつけるみたいに。

丸は、その日は違った、という情報だけを残す。出来事を詳細に書く必要なんてない。それは頭の中にあるからだ。だが、なにも残さなかったらなにも無かったような気がしてしまう。感情は記憶にだけ留めておくが、それが存在したことは思い出せるようにしたい。慎みがある人たちの、抑制された一言や一枚は、その丸なのだと思う。

ぼくは、その丸すらもなるべくつけないようにした。今もそうしている。これが特別だと決めてしまうと、もっと特別なことはやってこない気がするから。

違う旅

渡航制限が解除され、いよいよ娯楽としての海外旅行が復活した。渋谷や新宿を歩けば、外国人の多さに驚かされる。長旅から帰国してコロナがあり、しばらく経ってからぼくは知ったが、ぼくが旅をしていた2018年から2019年にかけては、歴史的に見ても右肩上がりに成長していた世界的な海外旅行ブームのピークだったようだ。

ぼくはあれ以来、外国に出かけていない。この夏あたり……と頭によぎったことはあったが、結局行かなかった。深い理由はない。行けないことはなかった。ここ数年、旅先で出会った友人は、その人の国籍を問わず、チャンスを見つけるとすかさずどこかに行く人間が多かった。皆、アグレッシブである。それを見ると、「自分も……」と思わなくもないが、即席の覚悟で実行に移した旅は、日常の自分からそれほど解き放たれないで終わることもぼくはよく知っている。日常の自分。それは、細かいことを気にする自分であり、特定の集団や特定の人間に対してどう威厳を見せるかを気にしている自分である。一目を置かれたいあなたである。

大学受験を終えたとき、もう二度と試験のための勉強をしたくないと強く思った。勉強ではそこそこ闘えることが自分に対して証明できたからだ。だから大学卒業に際してまず選択肢から消えたのは、大学院への進学や公務員、教員、難関資格取得という生き方である。天狗になっていたのではない。自分には足りないものに関心があった。

旅についても同じ考えを持っている。そこそこ闘えることが自分に対して証明できたら、少なくとも同じ旅はもう二度としない。同じとはどういうことか。同じ場面で同じように妥協したり、同じように落ち着きを失ったら、それはもう同じ旅だ。同じように写真を撮り、同じような言葉を添えて投稿したら、それはもう同じ旅だ。「勝ちパターン」を自覚的に踏襲し「自分はやり方を知っている」という全能感に満たされていたら、それはもう、刺激よりも安心を欲望した人間の、同じ旅だ。つまり、同じ旅というのは、期間や場所や予算の話ではない。

旅が好きだからといって「旅はいいぞ」なんてキャンペーンを張るだろうか。本が好きだからといって「本はいいぞ」なんてキャンペーンを張るだろうか。本当に楽しんでいるやつは、そんなことしない。キャンペーンを張っている者ほど「好き」の世界から早々と脱落していくのだ。金にならないだけで、仲間がいなくなっただけで、生活が手に入っただけで、不安が解消されただけで、彼らは消えていく。

そういえば最近、シェアサイクルを頻繁に利用している。都内には専用の駐輪場がたくさんあり、そのうちのどこで乗ってどこで乗り捨ててもいい。例えば家から一駅分はそれに乗って移動し、戻りは電車で帰ってくるということができる。予約と決済はアプリからできる。ぼくにとってこの夏は自転車の夏だった。それはあの世界旅行とも、十代の頃の自転車通学とも、違う旅だった。
自転車はいいぞ。

 

心のどこかにある「またやっちゃった」という思い

量産型の情報通と、アドレナリンの出るトピック

コロナのことで、右往左往したり、ひどい潔癖になってしまったり、あちこちに腹立たしい思いを感じて毎日を過ごすことになった人たちのことは気の毒だとも思う。きっと心のどこかに「またやっちゃった」という思いを抱えているのではないだろうか。

 

震災や原発に関する流言飛語。芸能や政治関連の無意味な炎上。超短期的なオタク系コンテンツの流行。著名人の死。そうした「アドレナリンの出るトピック」に発情したように吸い寄せられて、懸命に流れを追いかけて、さんざん影響されて、量産型の情報通になって、大騒ぎしちゃって、最後には「なにも残らなかった」という経験を、これまでも幾度となく繰り返してきたのが彼らだったはずだった。

 

それなのに、コロナで同じことを、またやっちゃった。しかもなかなかにその失敗の規模は大きかった。ぼくは彼らのことを気の毒に思う。

 

そんな彼らにも、「今日からマスクを外そう」と決断する日が近いうちにやってくることになりそうだ(もうきているだろうか)。そのとき彼らは、この三年間のことを忘れようとするだろう。自分がなにを信じ込み、なにを信じたがって、なにに腹を立て、なにが敵だと思いたかったか。「影響」だったこと。すべてが影響だったこと。無意味だったこと。みっともない騒ぎ方をしたこと。すべてを忘れようとするだろう。

 

そのために彼らは、次なる「アドレナリンの出るトピック」を必要とするだろう。そうしてまた同じことが繰り返される。不毛だ。あまり、不毛な人の悪口は言いたくない。言うことが不毛だからだ。言い続けると、不毛さの大砂漠にこちらも一緒に捉えられてしまい、ぼくも「またやっちゃった」と反省するはめになる。

 

類似性と反復

自然科学における発見の歴史は、「類似性と反復」の発見の歴史である。地球は一日一回自転する。太陽の周りを一年で公転し、同じ季節がやってくる。ある種の動物は産卵をせず、子は雌の体内で一定段階まで成長する(哺乳類と名づける)。ある種の海の動物たちはエラで呼吸する(魚類と名づける)。「類似性」と「反復していること」に気がつくとき、人類は新たな叡智を手に入れて、世界を美しく体系化し、より優れた感覚を身につける。

ぼくたち個人レベルにおいても同じことが言える。ある仕事と別の仕事を経験することで、どの仕事にも共通している普遍的なコツを見い出す。ある失敗と別の失敗を経験することで、自分の失敗にはお決まりのパターンがあることを知る。人のふりみて──その中にある自分との類似性を発見し──わがふり直す。

 

彼ら(と一括りにする)は、反復を自分の人生に発見しない。「悪い例」を目にして、自分の内部に類似した資質を発見しない。一度きりの失敗なら不毛ではない。やり方を変えた二度目の失敗にも意味がある。しかし彼らは不毛さを永久機関のように反復している。それもかなりのエネルギーを消費しながら。ばかみたいな話だが、ぼくはそこに「永遠」を感じてしまう。気の毒だが、ときどき笑ってしまう。

若さと明るさと『モダンラブ・東京』について

若いとは言えない年齢になってきている。体力がガクッと落ちたり、急速に顔がオジサン化してきているわけではないが、それでも大学生くらいの人間を見ると彼らの佇まいが自分とはまったく違っていることに気づかされる。なにが違うのだろう。今のところは、太ってもハゲてもいないし、街なかでデカいくしゃみとかをしているわけではない。中間管理職なんかになって神経をすり減らしているようなこともないし、子育てに忙殺されて世の中のことにめっきり疎くなってしまったというようなことでもない。そもそも昔から、世の中のことには疎かった。

 

最近、アマゾンプライムビデオで『モダンラブ・東京』というドラマを観ている。一話完結のオムニバス形式。まだ観はじめだが、すごく好きだ。パソコンのモニターやテレビで見るのではなく、iPhoneの小さな画面で観ている。それも、家ではなく、カフェに行ったときに一話ずつ観進めているのだ。『モダンラブ』はそのタイトルの通り、愛の物語だが、普通の男女の普通のラブストーリーは出てこない。同性のパートナーと結婚した女性が、仕事をしながら、(粉ミルクではなく)母乳に頑なにこだわって赤ちゃんを育てようと無理している話や、セックスレスで別れた若い夫婦が友達みたいな感じでまだお互いを好きなままでいる話、熟年離婚した女性が原宿で婚活デートする話など、一筋縄ではいかない愛の物語ばかりだ。ここまで読んで、こう思われた方もいるかもしれない。──「モダン」ってそういうことね。センセーショナルなテーマ性が売りのジャーナリスティックなドラマなのね、と。

違うのです。『モダンラブ』では確かに「今っぽさ」が描かれるが、それはけっして見せかけの今っぽさではない。テーマありきの今っぽさじゃない。むしろ、テーマ性のわきを固める細部の状況設定や演技がドキッとするほど「今っぽい」ときがあって、ぼくはそこに不思議な説得力を感じている。テーマ性は、けっしてそれ単体で自らの価値を主張しようとはせず、その主役を物語の臨場感の方に譲っている。だから、ぬるいメッセージを押し付けられたり、流行しているモチーフの継ぎ合わせを見せられるような心配はない。

 

だが、魅力を感じるのはそれだけではないかもしれない。『モダンラブ』を観た後は、どこか、友達の身の上話を聞いた後のような気分になるのだ。この人って、こんなことに悩んでいたんだなあ、こんなこと頑張っていたんだなあという感じ。こういう人いる、それも日本の東京にいる、という身近さがこの連作短編の主人公たちにはある。今このカフェで隣に座っている人や、駅ですれ違った人も、『モダンラブ』の主人公たちのように「自分の問題」と闘っているんだろうなぁ、なんて、見えていなかった見え方がふいに立ち現れてくる。ケチケチしたものやブスッとしたものが、観終わったそのときだけは、自分からかさぶたのようにポロポロと取れている。そういう感覚は、「物語の世界に入り込んで、終わったらそこから出てくる」タイプの一般的なフィクションとはなにかが違っている。主人公たちが現実と溶け合う瞬間が訪れるという意味で、確かにそれはモダンなのだ。
そのドラマは、夕方のカフェで、東京の喧騒の中で、小さなiPhoneBluetoothでイヤホンを繋いで、尻が痛いなあと思いながら観るのがすごく合っている。

 

若いとは言えない年齢にぼくがさしかかったとき、当然のことだが、ぼくの周囲も同様に若いとは言えない年齢にさしかかっていく。自分がジジイになっていくのも気が重いが、ときとして考えるのは、他人のことだ。
『モダンラブ』の主人公に「自分の問題」があるように、ぼくにも「自分の問題」があり、ぼくの友人たちにもそれぞれの「自分の問題」がある。厄介なのは白髪やシワが増えていくことなんかではない。「自分の問題」というのは、歳をとる中で、多くの場合、より切迫感を増し、新たな局面を生み出し、見たくなかった現実を突きつけ、自分という人間を変えざるを得ない状況に追い込んでくるということだ。仕事や結婚、金、性、子育て、パートナーとの関係。それらはほんの三、四年前の十八倍くらいの重さになって、いま我々の世代にのしかかっているようだ。『モダンラブ』の主人公たちは、なんとか希望を見つけていく。しかし、ぼくは自分がこれからそれらにどう対処していくのかまだ知らないし、友人たちだって、闘いの後に、希望が見出せるのかは不透明だ。希望は、見つからないかもしれない。そんな気配も少しはある。
なにが言いたいかというと、こういうことだ。

 

ひょっとすると、みんな、大変なのかもしれない。

 

なんとなくね。最近そう思うことが増えた。具体的なトラブルを目にしたわけではない。本当になんとなく、雰囲気として、そう思うようになった。友人たちは、三年前の友人たちではない。三年後はきっともっと違っている予感がある。
人間が変わっていくことは仕方ない。だけど、ダメになっていくことは避けたいと、ぼくは思っている。みんなはどうだろうか。そんな余裕はないと言うだろうか。

 

ダメとはなんだろうか。借金とかギャンブルとか虐待とかはともかくとして、それは、明るさを手放すことだと、ぼくは思う。明るさイコール、ハイテンションではない。意気投合とも違う。分け隔てない、ごく常識的な、安定した、性格の明るさだ。
本当に繊細な奴は、いつだって明るい。少年少女に限れば、静かで性格の暗い子の方が豊かな感受性を秘めているものだ。そしてバカなガキはきまって底抜けに明るいが、大人として生きていくにつれて逆転現象が起こる。不思議なことに大人は、歳をとるほど聡明さと明るさが連携し、しっかりと手を取り合うようになる。それがぼくの考えだ。子供にとっての明るさはただの「気分の波」。大人の明るさは、その人の優しさと器だと思う。
希望が見つからなくても、明るさを手放さない方法。それは、おそらくひとつしかない。明るかったときの自分を、プライドをかけて守っていくことだ。そのためにはプライドを持って生きようとする人や物語に触れ続けるべきで、絶対にいけないのが、プライドを失った集団の中に逃げこむことだ。インターネットにはそうした集団が山ほどある。慰めることを商売にしている連中と、不幸な同類に触れるほど元気が出る連中だ。そこには、限りなく敷居が下がりイージーになった嘘まみれの連帯しかない。自己に対する騙しにつぐ騙しで、生命力を弱体化し、幻の充実感で大はしゃぎする奴隷のような人々がいる。
希望はいつか見つかるかもしれないが、プライドを手放したらきっと、二度と返ってこないだろう。
みんな『モダンラブ・東京』を観よう。そして「自分の問題」に追われながらも、気丈さと粘り強さで希望を見つけていく主人公たちに、あるべき大人の明るさを見つけて、勇気をもらおう。そして十八倍の重さになった現実を、ともに生き延びよう。
ぼくは、本気で、それがいいと思っている。

 

 

食etcにまつわる近況報告

掃除機

さいきん掃除機を買った。コードレスで、フィルターの掃除が簡単でなおかつ軽いという充実のスペックだ。それを使って、毎日のように窓を開け放って掃除機がけをしている。うちには畳の部屋がある。はじめて畳に掃除機をかけたときは、表面には見えないほこりが異次元から現れたみたいにダストカップの中に突然発生していることに驚いた。隙間にそれらが詰まっていたのだった。それから数日間、つるつるの畳に掃除機をかけるたびにどこからかほこりが発生して、ダストカップにたまった。
ぼくは、どちらかというと綺麗好きだが、自分の部屋が自分のものと自分のほこりと自分の髪の毛で汚くなっている分にはまったく不潔さを感じないという中途半端な綺麗好きだった。そんな自分が近ごろ変わりつつある。

 

日本酒とワイン

変わったといえば、夏に国内旅行をして、それを機に日本酒が気になりだした。日本酒のよさ。それはなんといっても、米類と一緒に飲み続けることができることにある。辛口、甘口、さっぱり、などの傾向があるが、断然ぼくは辛口が好みなようだ。いまでもクラフトビールは好きだが、ビールはどうしても食前酒としての色合いが濃い。主食ではなく、つまみが欲しくなってしまう。そしてメインを食べはじめるとビールはもういらなくなってしまう。その点にかけて日本酒は、食中酒として完璧だという結論に至った。
食中酒つながりで、ワイン。ワインといえば、アヒージョや肉と合わせて赤ワインを適当に選んで飲むのがこれまでだったが、いまは白ワインに手が伸びる。オリーブオイル系のスパゲティを食べるとき、白ワインを合わせてゆっくり時間をかけるようになった。かつては、蕎麦のように細いスパゲティを固く茹でるのが好みだったが、ワインを味わうために家のスパゲティがどんどん太くなった。

 

コーヒー

アルコールもいいが、朝はやっぱりコーヒー。もう今年の年始になるが、エスプレッソマシンを買って豆を挽くところからやっている。ヨーロッパを旅して、本当のカプチーノを知った。日本でコーヒーというと、「ブレンド(ブラック)」か「フラペチーノ(スタバ限定)」という妙な二極化現象が起きている印象があるが、海外のカフェではブレンドコーヒーやブラックコーヒーという商品はあまり見ない。あちらでは基本的にエスプレッソがベースになっていて、それをミルクと合わせる(カプチーノ or ラテ)か、お湯で薄める(アメリカーノ)か選ぶスタイルが主流だ。濃く苦いコーヒーを飲んだほうが大人だというムードも、どうも日本に特有くさい。純喫茶は、純な喫茶店という意味だと思うのだが、純という言葉を「本場の」とか「本来の」という雰囲気で使っているのならば、あれはまったく本場ではない。むしろガラパゴスの極みだと言える。あの、バカ苦い「店主のこだわりのブレンドコーヒー」。嫌いではないが、ヨーロッパの古い街で何百という石畳の裏道を巡っても、そんなものにはついぞ出会わなかった。

 

クロワッサン

カプチーノといえば、同じようにして帰国したのちに探し求めたヨーロッパの食として、クロワッサンがあった。フランスでクロワッサンを食べるというのは、誰もが一度は憧れて、ほとんどの人は行った際にはその夢を実現したことだろうと思う。ぼくはフランスといわず、クロアチアからポルトガルもといデンマークまでシェンゲン協定圏中を駆け巡ってクロワッサンを食べまくった。やすくて美味くてコーヒーにピッタリ。食べ歩きにも適しているし、バスに持ち込んでもクセのない香りで、半日くらいは味が落ちない。日本では、駅前のパン屋に朝から出かけていくなんてこともしたが、今ではPicard(ピカール)というフランスの冷凍食品メーカーの看板商品であるクロワッサンに落ち着きました。

 

「忙しい」なんて一瞬たりとも思わない

以上──食etcにまつわる近況報告──、2022年もお疲れさまでした。
ある待合室であるじいさんが女性に話していた。「俺はあの国とあの国とあの国に行ったが、外国の飯なんて食えたものじゃない。治安も悪いし。日本が一番いい」
じいさんは矛盾している。外国をこき下ろしながら、自分が外国を知っていることを誇っている、つまり外国の威を借りているのだから。
じいさんは格好悪い。自分には国の良し悪しさえも判断できる大局的な視野があると思っているから。自分より物事を知っている人間が、すぐ近くであなたの話を聞いていることもある、そういう場合だってあるということに想像力を働かせることができないから。

そこのあなたもよいお年を。
安心の安売りには距離を取って。甘い言葉が効かなかったときのことをいつも思い出して。「最終的には自分の問題」だということを理解して。自分は間違っていないなんて思おうとしないで。他人のゲームに付き合わないで。こちらは来年も引き続き、「忙しい」なんて一瞬たりとも思わないような充実を追いかけて生きてゆきたいと願っています。