ビクトリア朝では「病気がち」であることがステータスだった

アガサ・クリスティの自伝を読んでいて興味深いと感じたことの一つに、彼女の少女時代、ビクトリア朝のイギリスでは女性たちのあいだで「病気がち」であることが流行していたというエピソードがあった。病気そのものではない。「病気がち」が流行っていたのである。「身体が丈夫ではない」ことは妙齢の女性にとってステータスだった。活発でタフな少女だったアガサ・クリスティは、ちょっとだけ小馬鹿にしたように当時をそう振り返っている。

と、こんな前置きをしたのも、今の時代も同じだと考えたからである。面白いことに、人はその性格によって、自慢(ステータス)に思っていることの内容が正反対だったりする。

例えばこうだ。

ある人は、昨日の睡眠時間の少なさを自慢をする。別の人はかかりつけ医から出される常備薬の多さを自慢する。ある人は、自分は会社に泊まり込むほどの長時間労働にだって耐えられることを誇る。別の人は自分はあらゆることに無気力で引きこもり体質なのだと嬉しそうに語る。己がタフであることを誇るならわかりやすい。しかし、そうでないことも、本人は意外に自分自身を表現するちょっとしたポイントだと思っているふしがある。ビクトリア朝の女性たちも同じだったことを思うと、人間って……と考えてしまう。

ぼくがそれを自慢(ステータス)だと言ったのは、先述したように、彼らがそれを誇らしげに、嬉しそうに語っているように見えたからだ。飛行機が苦手。飲みニケーションが苦手。あれが持病だ、これが体質だ。自分は繊細なのだ。傷つきやすいのだ。

「誇らしくなんかない、知ってもらわなきゃ困るから言うんだ!」うん、そうかもしれない。でも、そういう人もいるし、そうでない人もいる、とぼくは感じたのである。そしてどうやら、アガサ・クリスティも同じだったらしい。

ところでぼく自身、好みのうるささや、性格の気難しさを堂々と語ってしまうときがある。そういうとき、やはりどこかでそんな自分への愛着を感じて、あえて開き直ってツッパっているのだろう。だが、自分の精神面に関して、「ぼくの心は繊細だ」「傷つきやすく、感受性豊かだ」と言ったことはなかった。そんなのどうしたって主観でしかないじゃないか、と突っ込んでしまうのだ。要するに、自分が感じていることは、他人も同じように感じているのだとぼくは基本的に思っている。傷も、喜びも、人の悪意も、季節が移り変わっていく匂いも。そのポテンシャルの段階から、自分と他人を区別して考えたら進む話も進まなくなってしまうだろう。いや、ひょっとしてみんな、進めたくないのだろうか?