「自分探し」にまつわる真実

旅する理由を訊ねられて、「自分探し」だと最初にいった人はなにを考えていたのだろう。どこかの誰かが「自分探し」といったせいで、ぼくたちはときどき、旅をしない人からその言葉を使って揶揄される。その揶揄は的外れだと前々から考えていた。
旅の魅力は、自分ではなく、他者と出会えることにある。ここでいう他者とは、ノリノリで意気投合した旅仲間のことではなく、どちらかというと、「仲間」になることもなく過ぎ去っていった人たちや風景のことだ。そんな他者との関わりが、望むと望まざるに関わらず発生し続けるのが、異国の旅。物を買ったり、食事をしたり、トイレを探したり、乗り物で移動したりするだけでそれが起きるので、旅の過程は他者まみれだといっていい。では、そのようにして他者と出会って、私たちの内面にはどのような変化が起きるのか。腹を立てる場合もあれば、ほっこりするようなこともあるだろう。舞い上がったり、小さくなったり、同情したりもするだろう。いずれにせよたしかなことがある。それは、「自分のことを考えている場合じゃなくなる」ということである。すなわち、自分から自由になる。少なからず強制的に。旅の旅たる所以はここにある。
それならば、こういえるのではないか。異国を旅する理由は、まず「他者探し」にある。そしてその先に待つのは「自分忘れ」の旅であると。

 

では、自分はどこで見つかるのだろうか。「自分探し」は旅以外のどこかで行われているのだろうか。ぼくの考えでは「自分探し」は日常生活の中で行われており、その人の所属する社会がその舞台になっている。
自分とは? その答えは自分のことを知っている誰かの頭の中にある。自分について思い悩むことがあったら、深夜のファミレスか喫茶店に辛抱強い友人を呼び出して、「俺ってどんなやつ?」「私ってどんな人間だと思う?」と訊くといい。「おもしろいやつ」「意外に真面目」「辛辣」「頼りになるムードメーカー」「元気だけどみんなに気ぃ遣ってるよね」「頑固だけど芯があってそこがいい」なんて答えが返ってくるだろう。予想と違った回答でも、帰る頃には気持ちは軽くなっている。彼(彼女)の中に自分がいたことだけで「自分探し」の第一目的は達成しているともいえるからだ。
職場にも自分は見つかる。そこには今日も明日も変わらない自分の役割がある。家族や恋人の頭の中には、よりはっきりと自分が存在している。行きつけの飲み屋、SNSの相互フォロー、ペット、ご近所、活気のあるグループLINE。みんな、顔を見せればあなたがが誰だか教えてくれる。
どうだろう?
ぼくには案外、「地に足のついた」生活をおくる彼らの方こそ「自分探し」が止まらないように見えるのだ。

 

旅先では、一日で出会う誰の心にも自分が存在しない。それゆえに旅の最中にも関わらずSNSの方を向きすぎてしまい、「他者探し」よりもフォロワーや友人の頭の中に存在する自分を探すのに忙しくしてしまう人もいる。無理もないことだと思う。
「地に足のついた」人たちが生活から離れることができずにいる理由は、つきつめたら仕事や家庭の問題ではないことが多い。いっときも中断できないのは、本当は生活そのものではなく、自分探しなのだ。この職場に今日も自分の居場所はあるだろうか。恋人は自分のことを大切に思っているだろうか。友人たちは自分がいないところで盛り上がっていないだろうか。自分の思想信条は正しく理解され、見合ったリスペクトを受けているだろうか。
絶景や美食、刺激的な異文化、浴びたことのない風に憧れても「でも日本がいちばん楽だし」とうそぶく彼らは、旅が「他者探し」であることに勘づいている。

 

終わりなき日常のなかの「自分探し」の円環に閉じ込められないために、私たちにできることはなにか。ぼくの考えでは、そのための確実な方法は存在しない。成功体験や子供の頃の人間関係や身体感覚やいろいろなものが関係している。しかし、長い人生で発見してきた自分という存在 (その人にとっての「深夜のファミレス」)の蓄積を、目先の都合で、捨てたり選び直したり書き換えたりしないことは大切だろう。それをやるたびに、自分はバラバラになり、結果的にまた新しい自分を蓄積する必要が出てきてしまうのは火を見るよりも明らかだから。
目先の都合とはなにか。それは、ある個人や集団とうまくやっていきたいという都合か、挫折から立ち直るためという都合のどちらかが多いようだ。誰にでもある都合であり、少なからず自己変革を要し、また痛みを伴う。問題は、その変革の過程で、リセットへの願望や、過去の自分を別のなにかに仮託してそのなにかを激烈に否定したい願望に駆られることである。それがつまり、バラバラになることの実態である。

 

ぼくはぼくにとっての「深夜のファミレス」を大切にしているし、それに助けられている。思い出はよく記憶しているほうだ。というか、たぶん、余す所なく記憶している。過去の体験を、新しい生活や出会いが上書きするようなことはぼくの場合、考えられない。その記憶たちが、一日で出会う誰の心にも自分が存在しない「自分忘れ」の旅での道筋になったと信じている。自分探しが必要ない状態になれば、そのあとにはきっと、いいことがある。