焼き付けるということについて

旅の最中は、今よりもSNSとの距離が近かった。だから、ある経験に遭遇すると、よくこう考えた。これは投稿するべきか、と。だいたいぼくはそういうとき、やめておこう、という結論を出した。

SNSでの発信が活発な人間について、彼らの「承認欲求」というモチベーションが指摘される。自慢、見栄、マウンティングとも近いところにあるその言葉は、ぼくはそれほど重要なものではないと思う。ぼくが気になるのは、そんな彼らよりも少し慎みがある人たちのことだ。慎みがある人たちは、衝動的には投稿しない。ぼくがそうだったように、その投稿が他人にとって、自分にとって、どんな意味を持つのかをいつも慎重に吟味している。そして、あるとき、大切なことの象徴的な一部だけを切りとったテキストや写真の欠片を、いかにもひっそりとネットの世界に放流する。多くの場合、他人からみたらその投稿が意味するところはぼんやりとしかわからない。

個人的な慎みを乗り越えて投稿された彼らの文章や写真は、その人にとってどんな意味を持っているのだろうか。その投稿に限って、やめておこう、という結論に至らなかったのはなぜだろうか。自分の経験に照らし合わせて考えてみると、ぼくはこう推測できる。彼らは焼き付けたかったのだ、と。カレンダーの特別な日に丸をつけるみたいに。

丸は、その日は違った、という情報だけを残す。出来事を詳細に書く必要なんてない。それは頭の中にあるからだ。だが、なにも残さなかったらなにも無かったような気がしてしまう。感情は記憶にだけ留めておくが、それが存在したことは思い出せるようにしたい。慎みがある人たちの、抑制された一言や一枚は、その丸なのだと思う。

ぼくは、その丸すらもなるべくつけないようにした。今もそうしている。これが特別だと決めてしまうと、もっと特別なことはやってこない気がするから。