違う旅

渡航制限が解除され、いよいよ娯楽としての海外旅行が復活した。渋谷や新宿を歩けば、外国人の多さに驚かされる。長旅から帰国してコロナがあり、しばらく経ってからぼくは知ったが、ぼくが旅をしていた2018年から2019年にかけては、歴史的に見ても右肩上がりに成長していた世界的な海外旅行ブームのピークだったようだ。

ぼくはあれ以来、外国に出かけていない。この夏あたり……と頭によぎったことはあったが、結局行かなかった。深い理由はない。行けないことはなかった。ここ数年、旅先で出会った友人は、その人の国籍を問わず、チャンスを見つけるとすかさずどこかに行く人間が多かった。皆、アグレッシブである。それを見ると、「自分も……」と思わなくもないが、即席の覚悟で実行に移した旅は、日常の自分からそれほど解き放たれないで終わることもぼくはよく知っている。日常の自分。それは、細かいことを気にする自分であり、特定の集団や特定の人間に対してどう威厳を見せるかを気にしている自分である。一目を置かれたいあなたである。

大学受験を終えたとき、もう二度と試験のための勉強をしたくないと強く思った。勉強ではそこそこ闘えることが自分に対して証明できたからだ。だから大学卒業に際してまず選択肢から消えたのは、大学院への進学や公務員、教員、難関資格取得という生き方である。天狗になっていたのではない。自分には足りないものに関心があった。

旅についても同じ考えを持っている。そこそこ闘えることが自分に対して証明できたら、少なくとも同じ旅はもう二度としない。同じとはどういうことか。同じ場面で同じように妥協したり、同じように落ち着きを失ったら、それはもう同じ旅だ。同じように写真を撮り、同じような言葉を添えて投稿したら、それはもう同じ旅だ。「勝ちパターン」を自覚的に踏襲し「自分はやり方を知っている」という全能感に満たされていたら、それはもう、刺激よりも安心を欲望した人間の、同じ旅だ。つまり、同じ旅というのは、期間や場所や予算の話ではない。

旅が好きだからといって「旅はいいぞ」なんてキャンペーンを張るだろうか。本が好きだからといって「本はいいぞ」なんてキャンペーンを張るだろうか。本当に楽しんでいるやつは、そんなことしない。キャンペーンを張っている者ほど「好き」の世界から早々と脱落していくのだ。金にならないだけで、仲間がいなくなっただけで、生活が手に入っただけで、不安が解消されただけで、彼らは消えていく。

そういえば最近、シェアサイクルを頻繁に利用している。都内には専用の駐輪場がたくさんあり、そのうちのどこで乗ってどこで乗り捨ててもいい。例えば家から一駅分はそれに乗って移動し、戻りは電車で帰ってくるということができる。予約と決済はアプリからできる。ぼくにとってこの夏は自転車の夏だった。それはあの世界旅行とも、十代の頃の自転車通学とも、違う旅だった。
自転車はいいぞ。