心のどこかにある「またやっちゃった」という思い

量産型の情報通と、アドレナリンの出るトピック

コロナのことで、右往左往したり、ひどい潔癖になってしまったり、あちこちに腹立たしい思いを感じて毎日を過ごすことになった人たちのことは気の毒だとも思う。きっと心のどこかに「またやっちゃった」という思いを抱えているのではないだろうか。

 

震災や原発に関する流言飛語。芸能や政治関連の無意味な炎上。超短期的なオタク系コンテンツの流行。著名人の死。そうした「アドレナリンの出るトピック」に発情したように吸い寄せられて、懸命に流れを追いかけて、さんざん影響されて、量産型の情報通になって、大騒ぎしちゃって、最後には「なにも残らなかった」という経験を、これまでも幾度となく繰り返してきたのが彼らだったはずだった。

 

それなのに、コロナで同じことを、またやっちゃった。しかもなかなかにその失敗の規模は大きかった。ぼくは彼らのことを気の毒に思う。

 

そんな彼らにも、「今日からマスクを外そう」と決断する日が近いうちにやってくることになりそうだ(もうきているだろうか)。そのとき彼らは、この三年間のことを忘れようとするだろう。自分がなにを信じ込み、なにを信じたがって、なにに腹を立て、なにが敵だと思いたかったか。「影響」だったこと。すべてが影響だったこと。無意味だったこと。みっともない騒ぎ方をしたこと。すべてを忘れようとするだろう。

 

そのために彼らは、次なる「アドレナリンの出るトピック」を必要とするだろう。そうしてまた同じことが繰り返される。不毛だ。あまり、不毛な人の悪口は言いたくない。言うことが不毛だからだ。言い続けると、不毛さの大砂漠にこちらも一緒に捉えられてしまい、ぼくも「またやっちゃった」と反省するはめになる。

 

類似性と反復

自然科学における発見の歴史は、「類似性と反復」の発見の歴史である。地球は一日一回自転する。太陽の周りを一年で公転し、同じ季節がやってくる。ある種の動物は産卵をせず、子は雌の体内で一定段階まで成長する(哺乳類と名づける)。ある種の海の動物たちはエラで呼吸する(魚類と名づける)。「類似性」と「反復していること」に気がつくとき、人類は新たな叡智を手に入れて、世界を美しく体系化し、より優れた感覚を身につける。

ぼくたち個人レベルにおいても同じことが言える。ある仕事と別の仕事を経験することで、どの仕事にも共通している普遍的なコツを見い出す。ある失敗と別の失敗を経験することで、自分の失敗にはお決まりのパターンがあることを知る。人のふりみて──その中にある自分との類似性を発見し──わがふり直す。

 

彼ら(と一括りにする)は、反復を自分の人生に発見しない。「悪い例」を目にして、自分の内部に類似した資質を発見しない。一度きりの失敗なら不毛ではない。やり方を変えた二度目の失敗にも意味がある。しかし彼らは不毛さを永久機関のように反復している。それもかなりのエネルギーを消費しながら。ばかみたいな話だが、ぼくはそこに「永遠」を感じてしまう。気の毒だが、ときどき笑ってしまう。