若さと明るさと『モダンラブ・東京』について

若いとは言えない年齢になってきている。体力がガクッと落ちたり、急速に顔がオジサン化してきているわけではないが、それでも大学生くらいの人間を見ると彼らの佇まいが自分とはまったく違っていることに気づかされる。なにが違うのだろう。今のところは、太ってもハゲてもいないし、街なかでデカいくしゃみとかをしているわけではない。中間管理職なんかになって神経をすり減らしているようなこともないし、子育てに忙殺されて世の中のことにめっきり疎くなってしまったというようなことでもない。そもそも昔から、世の中のことには疎かった。

 

最近、アマゾンプライムビデオで『モダンラブ・東京』というドラマを観ている。一話完結のオムニバス形式。まだ観はじめだが、すごく好きだ。パソコンのモニターやテレビで見るのではなく、iPhoneの小さな画面で観ている。それも、家ではなく、カフェに行ったときに一話ずつ観進めているのだ。『モダンラブ』はそのタイトルの通り、愛の物語だが、普通の男女の普通のラブストーリーは出てこない。同性のパートナーと結婚した女性が、仕事をしながら、(粉ミルクではなく)母乳に頑なにこだわって赤ちゃんを育てようと無理している話や、セックスレスで別れた若い夫婦が友達みたいな感じでまだお互いを好きなままでいる話、熟年離婚した女性が原宿で婚活デートする話など、一筋縄ではいかない愛の物語ばかりだ。ここまで読んで、こう思われた方もいるかもしれない。──「モダン」ってそういうことね。センセーショナルなテーマ性が売りのジャーナリスティックなドラマなのね、と。

違うのです。『モダンラブ』では確かに「今っぽさ」が描かれるが、それはけっして見せかけの今っぽさではない。テーマありきの今っぽさじゃない。むしろ、テーマ性のわきを固める細部の状況設定や演技がドキッとするほど「今っぽい」ときがあって、ぼくはそこに不思議な説得力を感じている。テーマ性は、けっしてそれ単体で自らの価値を主張しようとはせず、その主役を物語の臨場感の方に譲っている。だから、ぬるいメッセージを押し付けられたり、流行しているモチーフの継ぎ合わせを見せられるような心配はない。

 

だが、魅力を感じるのはそれだけではないかもしれない。『モダンラブ』を観た後は、どこか、友達の身の上話を聞いた後のような気分になるのだ。この人って、こんなことに悩んでいたんだなあ、こんなこと頑張っていたんだなあという感じ。こういう人いる、それも日本の東京にいる、という身近さがこの連作短編の主人公たちにはある。今このカフェで隣に座っている人や、駅ですれ違った人も、『モダンラブ』の主人公たちのように「自分の問題」と闘っているんだろうなぁ、なんて、見えていなかった見え方がふいに立ち現れてくる。ケチケチしたものやブスッとしたものが、観終わったそのときだけは、自分からかさぶたのようにポロポロと取れている。そういう感覚は、「物語の世界に入り込んで、終わったらそこから出てくる」タイプの一般的なフィクションとはなにかが違っている。主人公たちが現実と溶け合う瞬間が訪れるという意味で、確かにそれはモダンなのだ。
そのドラマは、夕方のカフェで、東京の喧騒の中で、小さなiPhoneBluetoothでイヤホンを繋いで、尻が痛いなあと思いながら観るのがすごく合っている。

 

若いとは言えない年齢にぼくがさしかかったとき、当然のことだが、ぼくの周囲も同様に若いとは言えない年齢にさしかかっていく。自分がジジイになっていくのも気が重いが、ときとして考えるのは、他人のことだ。
『モダンラブ』の主人公に「自分の問題」があるように、ぼくにも「自分の問題」があり、ぼくの友人たちにもそれぞれの「自分の問題」がある。厄介なのは白髪やシワが増えていくことなんかではない。「自分の問題」というのは、歳をとる中で、多くの場合、より切迫感を増し、新たな局面を生み出し、見たくなかった現実を突きつけ、自分という人間を変えざるを得ない状況に追い込んでくるということだ。仕事や結婚、金、性、子育て、パートナーとの関係。それらはほんの三、四年前の十八倍くらいの重さになって、いま我々の世代にのしかかっているようだ。『モダンラブ』の主人公たちは、なんとか希望を見つけていく。しかし、ぼくは自分がこれからそれらにどう対処していくのかまだ知らないし、友人たちだって、闘いの後に、希望が見出せるのかは不透明だ。希望は、見つからないかもしれない。そんな気配も少しはある。
なにが言いたいかというと、こういうことだ。

 

ひょっとすると、みんな、大変なのかもしれない。

 

なんとなくね。最近そう思うことが増えた。具体的なトラブルを目にしたわけではない。本当になんとなく、雰囲気として、そう思うようになった。友人たちは、三年前の友人たちではない。三年後はきっともっと違っている予感がある。
人間が変わっていくことは仕方ない。だけど、ダメになっていくことは避けたいと、ぼくは思っている。みんなはどうだろうか。そんな余裕はないと言うだろうか。

 

ダメとはなんだろうか。借金とかギャンブルとか虐待とかはともかくとして、それは、明るさを手放すことだと、ぼくは思う。明るさイコール、ハイテンションではない。意気投合とも違う。分け隔てない、ごく常識的な、安定した、性格の明るさだ。
本当に繊細な奴は、いつだって明るい。少年少女に限れば、静かで性格の暗い子の方が豊かな感受性を秘めているものだ。そしてバカなガキはきまって底抜けに明るいが、大人として生きていくにつれて逆転現象が起こる。不思議なことに大人は、歳をとるほど聡明さと明るさが連携し、しっかりと手を取り合うようになる。それがぼくの考えだ。子供にとっての明るさはただの「気分の波」。大人の明るさは、その人の優しさと器だと思う。
希望が見つからなくても、明るさを手放さない方法。それは、おそらくひとつしかない。明るかったときの自分を、プライドをかけて守っていくことだ。そのためにはプライドを持って生きようとする人や物語に触れ続けるべきで、絶対にいけないのが、プライドを失った集団の中に逃げこむことだ。インターネットにはそうした集団が山ほどある。慰めることを商売にしている連中と、不幸な同類に触れるほど元気が出る連中だ。そこには、限りなく敷居が下がりイージーになった嘘まみれの連帯しかない。自己に対する騙しにつぐ騙しで、生命力を弱体化し、幻の充実感で大はしゃぎする奴隷のような人々がいる。
希望はいつか見つかるかもしれないが、プライドを手放したらきっと、二度と返ってこないだろう。
みんな『モダンラブ・東京』を観よう。そして「自分の問題」に追われながらも、気丈さと粘り強さで希望を見つけていく主人公たちに、あるべき大人の明るさを見つけて、勇気をもらおう。そして十八倍の重さになった現実を、ともに生き延びよう。
ぼくは、本気で、それがいいと思っている。