主演俳優

習慣にしてから四ヶ月弱、休むことなくジョギングを継続できている。一日の走行距離も少しずつ伸ばせており、今では呼吸もほとんど乱れない。「スースーはーはー」のリズムが鼻呼吸でも間に合うくらいだ。雨の日と外へ飲みに行く日は休むが、そうすると大体その翌日に二倍走る。三倍走った日もある。少しずつひらかれていく夜桜が楽しい。身体に目に見える変化はないが、目に見える変化を期待して走っているわけではないところがミソである。

やっぱり最近は暖かくなってきたからか、ランナーが増えている。走り始めのランナーは腕がだらんと下がっているのですぐにそれとわかる。本格的なランナーはそれはそれで一目瞭然。彼らは走ることが目的ではなく、どのようにして走れるかを問題にして走っている。ぼくもなんとなくその日のテーマなり気をつけたいことを頭に浮かべたりする。

暖かくなってランナーが増えるのはわかるが、面白かったのは年明け直後にも一時的にランナーが増えたことだ。彼らはきっと「今年は痩せる!」なんて新年の抱負をたてたのだと思う。それでこぞって新しい気持ちになって走りだしたのだ。彼らのうちどのくらいが今も続けているだろうか。

最近「Kindle Oasis」を買った。キンドルにもいくつかあるが、Oasisはその最上位モデルだ。これがなかなか快適で、走った後はこれを風呂に持ち込んでひたすら読んでいる。防水対応で、とにかくバッテリーが長持ちする。これまでぼくはこのような「電子書籍専用端末」を買ったことが無く、電子書籍を読むときはiPhoneKindleアプリを利用していた。旅をしているときはそれでたくさんの本を読んだ。ことさらデジタルを甘くみたりはしないけどやっぱり紙の本が基本だと思っていたので電子書籍「専用」端末なんて欲しがったこともなかったぼくの心が動いたのは、旅の途中だ。旅で出会った西洋人バックパッカーたちの多くがそれらを当たり前のように所持していたのだ。

バックパッカーはその性質上、アナログ志向、自然趣味、ミニマリスト、古いもの好きが多い。そんな彼らがKindleを使いこなしているのは意外だった。だけどぼくはそれをかっこいいと思った。日本人、中国人、アジア系、それにアラブ系やアフリカ系の粗野な男たちがスマホを横にして動画やゲームで暇つぶしをしているその横で、西洋人がKindleで「本」を読んでいるシーンをぼくは何度も見かけた。同じバスの待合室、同じドミトリーの消灯前、同じ長距離列車のボックス席で。豊さとはこういうことをいうのだなと思った。

オリンピックは盛り上がるけど、オリンピックの延期はそれ以上に盛り上がったんじゃないかな? ただぼーっと生きていたって社会にはこうやっていろいろなことが起きる。以前勤めていた会社の社長が言っていた。「組織は揺さぶったほうがいい」って。揺さぶられたぼくたち社員は理不尽な悲劇や喜劇に見舞われつつも退屈しない日々を過ごした。ただぼーっと生きていたって、地球がこうして、社会がこうして、人類を揺さぶってくれる。同じことだ。元号も変わればウィルスもテロもある。異常気象も地殻変動も隕石の衝突もワールドカップもほうっておけば「うちらの番」がまわってくる。だからただぼーっと生きている人も、人生をドラマチックに感じる、おおがかりな気分になるには意外と事欠かない。そういう「イベントどき」ってのは、情熱とか愛情とか正義感とか連帯感とか情けとか慈しみの心を自分の内部に感じやすいし、明晰な頭脳やひそかに誇ってきた人間力を活躍させるチャンスでもある。一種の祭りだ。ただそれは、自分の人生をほったらかしていた人々がいまさら主演俳優のテンションで立ちまわろうとする地獄のような祭りなのだ。

ぼくは自分の情熱や愛情、正義感、情け、慈しみ、洞察、考察、勇気なんかを「一種の祭り」に捧げたくはないなあと思う。ただでさえみんなそれらが足りなくて困っているはずなのに (生活物資よりもずっと)。
現実はパニック映画ではない。嵐が去った後には嵐がくる前と同じ個人的問題がそっくりそのまま残されているはずだ。だから最新の情報をコレクションしている暇があったら股関節のストレッチでもしているべきだと思う。ぼくの場合ならね。
自分で自分を揺さぶったときにだけ、人は主演俳優でいることが許されるんだよ。