旅人のその後

あのときの旅人は今なにをしているのだろう?

ぼくと同じような長い旅を終えて、同じようにそれぞれの国に帰った友人たちがいる。彼らの多くは旅の最中はSNSで旅の日常記録や写真を継続的にポストし、その旅が充実して続いていることが傍目にも良く分かった。だが、やがて彼らの旅が劇的に終わった後、SNSの更新は多くの場合途絶えることとなった。彼らは今何をしているのだろう?

 

不思議なことに旅人だった人の帰国後のイメージはほとんど湧いてこない。

その理由は明らかで、ぼくは彼らの旅人としての顔しか見てこなかったからだ。全ての旅人は「旅人であること」をアイデンティティとして生きている。旅は人を特殊な状態にし、旅人であるとき人は特別な顔をしている。アイデンティティを失った人の充実した生き方を想像できないのはある種自然の成り行きなのだ。

充実した生き方? そう、ぼくは彼らの人生のその後についてこう考えてしまう。

 

 

旅先では輝いていたあの人だけど、母国での社会生活に復帰するのは厳しいのではなかろうか?

 

あんなに自由だったあの人が、定時のオフィスワークなんて続けられるのだろうか?

 

刺激を求めて止まなかったあの人が、単調な日常生活を送ったら腐ってしまわないだろうか?

 

本当の仲間と出会ったあの人が、保守的な価値観の人々との付き合いに前向きでいられるだろうか?

 

履歴書に何年もブランクを空けて、まともな仕事は見つかるのだろうか?

 

自由で美しかった日々とのギャップに苦しまないのだろうか?

 

 

旅人には優秀な人が多い。彼らには英語があって、勇気があって、行動力がある。立ち直りが早く、肝が座って、人に寄りかからない。時と場所に左右されにくい種類のコミュニケーション能力を持っている。

だが旅人には皆どこかに脆いところがある。出会った人の多くが、どこかで深く傷ついた過去があるような、そんな印象がある。彼らはタフであると同時に繊細なのだ。居場所を間違えたら、彼らは「普通の人よりも遥かに低いパフォーマンスで」生きていくことしかできない。そんな危うさをはらんでいる。

 

だからぼくはときどき勝手に心配している。 旅が終わった時に待ち受ける現実に直面した、彼らの人生のその後について。輝きを失わずにいられない人々について。旅は確かに人生を決定的に変えるが、同時にどうしても変わらない部分もある。その、どうしても変わらない部分と対峙した人々について。

でも、そんなとき、少しだけ落ち着いて考えれば全く同じことがぼく自身にも言えたことに気がつく。実際に旅の最中に何度もこう言われた。

「お前はもうTokyoでのbusyな生活に適応できないぜ。きっと帰国してもまたすぐに旅に出てしまうはずさ」

って。

さて、ぼくが今東京生活に適応しているのかどうかはわからない。確かに明日にも旅に出てしまわない保証なんてどこにもないが。ただ、ぼくを心配する人がいたら、あるいはぼくをみくびっている人がいたらこう伝えることに嘘も強がりもない。
「楽しくやっているよ (でもまたいつか旅に出ることは確かだろうね) 」って。

 

 P.S.

この曲は全ての旅人に、あるいは旅に出なかった人に聴いて欲しい曲だ。ぼくは旅に出なかった側の人間から、出た側の人間になった。

 

君は、行っても行かなくてもおんなじだと思ったのかい。